44 MIZUKI・s◆MEER
 今やプロレタリアートからも自己責任として見放されるが、それでこそ元来の対象であるプロレタリアートへの転化が容易となる有用な自己責任の刻印を持つ多様な賎民達の詳細は、系列かつ系統に基づく【解剖】の下で宣明されえるものの、
それとて「シリーズの“結束”」の下ではいともたやすく無効化出来るのです。
というのも、「シリーズの“結束”」は、彼らの直接の結束もさることながらそれよりも、むしろ、その軽忽さを培地とする事からの個別の事象をばその実とせずに用途の派生上の事とし、
掲げずとも掲げていることに成る状態という様態の流布かつ定着自体を持っての樹立だからです。

 更に重ねて述べるなら、賎民達の愚に於ける実質の成分の濃度に従う内罰かつ外罰の展開もまたプロレタリアに対しては格段に有効ではあるが、それはさておき、
とりわけて暑ければ上半身となりとりわけて寒ければラップフィルムを巻き着けて仕事に明け暮れては、しばしばの休憩時間の内で幻聴である再開の怒号と自覚上の熟睡とを常としつつ、
その詳細からは自然かつ有為にも1ヶ月当たりの食費を10万円から12万円としていた頃に於ける権利の行使と『自由の謳歌』は、たしかに身近な賎民の晃晃たる愚を前にしては有為性を低めはするものの、
階層を隔てて遍在するかかる形質は、その代金を持っていよいよな公共の安全への貢献を果たすに止まらず、その行動を持っては国民として立派にも秩序の維持に参与するのであり、
それは他方では、賢い選択としての平時のレンタルを行い、それに基づく民の多元等級付けや逐次変化する産出への安定に寄与しつつ、能力に長けた者に限る「仕事」を受け入れるものとする力の同盟の内の覇権への望ましい穏健さへその教義・信仰・準則・テンポ・フィーリング・プライド・リズムを傍らに役立っているのです。


次は明日にします。
(SH903i/FOMA)